平成18年度
■10月の禅語■
知足
(足るを知る)
(タルヲシル)
まず自分を知り、自分の分限を知る。
そして自分の分限に合ったもので満足すると、欲望もいつしか消え去る。
■11月の禅語■
照顧却下
(却下を照顧せよ)
(キャッカヲショウコセヨ)
足元に注意せよ。
常に自分自身を振り返り、
原点に立ち返って反省することが大切である。
■12月の禅語■
名利共休
(名利共に休ず)
(ミョウリトモニキュウズ)
名誉欲と利益への欲を共に休む。
心の自由こそ最も大切なことである。
千利休の名もここからつけられた。
平成19年度
■1月の禅語■
日々是好日
(日々是れ好日)
(ニチニチコレコウジツ)
毎日毎日が最良の日である。
雨の日も風の日も、辛い日も悲しい日も、
それを良き日と受け止めて生きたい。
■2月の禅語■
平常心是道
(平常心是れ道)
(ヘイジョウシンコレドウ)
仏道にはとりたてて道というものはない。
日常の行為、ありのままが道なのである。
■3月の禅語■
不思善不思悪
(善をも思わず悪をも思わず)
(ゼンヲモオモワズアクヲモオモワズ)
善いとも思わず悪いとも思わず、好きも嫌いも、暑さも寒さも、一切の分別を断ち切ると、本来の自分に出会える。
■4月の禅語■
百尺竿頭進一歩
(百尺竿頭に一歩を進む)
(ヒャクシャクカントウニイッポヲススム)
長い竿の先からさらに一歩を進める。
どこまでも向上心を持って物事を極めていくことが肝要である。
■5月の禅語■
竹影掃階塵不動
(竹影階を掃うも塵動ぜず)
(チクエイカイヲハラウモチリドウゼズ)
竹の影が箒(ホウキ)のようになって階段を掃いているが、
塵はまったく動かない。
何事にも動じない不動の心をもちたい。
■6月の禅語■
好事不如無
(好事も無きに如かず)
(コウジモナキニシカズ)
どんなよい事でも、無いに越したことはない。
好事もあとに尾を引けば災いとなる。
■7月の禅語■
時々勤拂拭
(時々に勤めて拂拭せよ)
(ジジニツトメテフッシキセヨ)
心も体も常に煩悩の曇りを拭き清めなければならない。
毎日それを怠ってはならない 。
■8月の禅語■
滅却心頭火自涼
(心頭を滅却すれば火も自ずから涼し)
(シントウヲメッキャックスレバヒモオノズカラスズシ)
妄想煩悩がすべて断ち切られて
無碍自在の境地が得られればたとえ火でも
涼しく感じるものである。
■9月の禅語■
應無所住而生其心
(應に住する所無くして而も其の心を生ずべし)
(マサニジュウスルトコロナクシテシカモソノシンヲショウズベシ)
まさに、とどまるところなくして、
しかもさまざまな物に心を向ける。
執着心をはなれ、自由自在に心をはたらかせたい。
■10月の禅語■
水急不流月
(水急なれども月を流さず)
(ミズキュウナレドモツキヲナガサズ)
川面に月が映っている。
水の流れは速く激しいけれど、その月を流すことはない。
世の中は、常に流れ続ける川のようなものだけど、本当のこと、真理、真実はこの月のように変わらないということである。
現物の月はひとつだが、映る月はそれぞれの人、場所にもある。
「真実はひとつだが、その真実は、どんな人にも、場所にも存在する」と言えるのだ。
■11月の禅語■
魚行水濁
(魚行けば水濁る)
(ウオユケバミズニゴル)
魚が川底を近くを泳ぐと、川砂が舞い、その跡が道のように続いていきます。同じように私達も、生きていくとその痕跡が残っていきます。
昨日のことを消してしまおうと思ってもそうはいきません。生まれてからずっと繋がって今のあなたがあるのです。
この一日、この一瞬を大切にして生きていきましょう。
■12月の禅語■
洗心
(せんしん)
(センシン)
「洗心」とは文字通り「心を洗う」ということ。
顔や体と同じように自分では気づかないうちに心も汚れます。美しい自然の景色を目にしたとき、すばらしい音楽や絵画、そして言葉と出会った時、私達は「心が洗われる」という表現を使います。人間は感動によって心の汚れを洗い流すことができるのです。しかしこの「洗い方」は外からの体験によってできることです。
日々の生活の中で心の汚れを落とすには、一日の最後、布団に入る前、静かに座り、姿勢を正し、呼吸を整え、「今日はあんなことをしてしまった、こんなことも思ってしまった、今度からは気をつけよう。」と一日の反省時間を持つのです。まず、今日ついてしまった具体的な汚れを認め、明日からはもう二度としないと誓うのです。ただ� �れだけのことです。
すると自然に心は洗われるでしょう。
平成20年度
■1月の禅語■
随處作主立處皆真
(随處に主と作れば立處皆真なり)
(ズイショニシュトナレバリッショミナシンナリ)
自分の置かれた場所で隙の無いように精一杯やるならば、どこにあっても真実のいのちにめぐりあえるという意味。
よく「主体性を持て!」と言われますが、主体性を持つとは、随處に(どこにでも)自分を投入して惜しまぬ愛情だと考えられます。すると、随處に意味を発見でき、真実のいのちにめぐりあえるのです。そこに生きがいを感じることができるでしょう。
■2月の禅語■
白馬入蘆花
(白馬、蘆花に入る)
(ハクバ、ロカニイル)
白い蘆花(あしのはな)が、辺りいっぱいに咲いています。
そこに白い馬が入ってしまったら、馬はどこにいるか分からなくなってしまいます。でも実際は、花々も馬も存在しているのです。
一面の雪景色を思い浮かべてみてください。
どこまでも真っ白で同じに見えるけれど、よく観ると雪だって一つ一つ違う形の結晶で出来ています。
人間も同じで、あの人もこの人も、もともと自分とは違うんだと思うことでいい結果を出すことがあります。
■3月の禅語■
花開蝶自来
(花開けば蝶自ずから来る)
(ハナヒラケバチョウオノズカラキタル)
人は自然に誰かを愛したり、誰かに愛されたりしています。
しかし「愛されたい」という気持ちに支配されてしまうと、どうしたら自分自身を
アピールできるか、そればかり考えてしまうものです。
しかし、花はどうやって咲こうか、どんな香りで蝶(虫)をおびき寄せようかなどと
考えているわけではありません。種から芽を出して、時間をかけて自然に花を咲かせる。
するとどこからか、自然と蝶が集まってくる。
私たちもこつこつ努力をして何かを成し得たとき、
それを認めて、集まって来る人、愛してくれる人は必ず現れるのではないでしょうか。
■4月の禅語■
両忘
(りょうぼう)
物事を二つに分けることを忘れてしまえという意味です。
生と死、貧と富、楽と苦、愛と憎、勝と負、好きと嫌い、大と小、高と低、明と暗、美と醜、
善と悪、左と右、内と外など、この世界は二つの相対しているものであふれています。
私たち、人間は物事の白黒をつけたがる傾向があります。
自分は、世間でいうところのお金持ちなのか貧乏なのか、頭がいいのか悪いのかなど、どちらかに
分類しようとするから、不安になるのかもしれません。
花畑にはいろいろの花がたくさん咲いています。
どれが美しくて、どれが醜いなんてだれが決めれるでしょうか?
■5月の禅語■
莫妄想
(まくもうそう)
「妄想することなかれ」という禅語です。
「莫」とは、なし、「妄想」は正しくない想念、根拠の無い主観的な信念を言います。
人は、過去や未来のことを悩んだり、不安になったりしがちです。
すでに起こってしまったことについてあれこれ悩んだところで、
過去にもどって修正することはできないし、どうなるかわからない
未来について不安がっても、どうすることもできません。
いたずらに苦しみを生み出すような想像(妄想)はするだけ無駄なのです。
もちろん、反省することや心配することは悪いわけではありません。
「あの時、こうしておけばよかった」という思いが、次に同じことが
起きた時の参考になるし「もしかしたらこうなるかも」と予測して準備しておくことで、失敗を未然に防げる場合もあるのです。
ただし、反省や心配をもとに努力を尽くしたあとは、もうあれこれ悩まない、
悩んでもこれ以上することはないということを知っておきましょう。
■6月の禅語■
一華開五葉
(一華五葉を開く)
(イッカゴヨウヲヒラク)
菩提達磨大師の伝法偈。
吾本茲の土に来たり。法を伝え迷情を救う。
一華五葉を開き、結果、自然に成る。
達磨が自分の伝え来た禅の一宗がこの中国に根をおろし、
将来五つの流派に分化して大いに栄えるであろうと予言したものである。
また、五葉を五代と解し達磨から五代を経て六祖に至って、正法が宣揚される意味。
一つの花が五弁の花びらを開いて、やがて結実する。
一生懸命に修行(物事)に取り組めば、煩悩から開放され、悟りの花が開く。
■7月の禅語■
松直棘曲
(松は直く、棘は曲がれり)
(マツハナオクイバラハマガレリ)
文字通り、松は真っ直ぐに伸び、棘は曲がっているということです。
今の日本では、松といえば幹が少し曲がっているのが特徴だと
思われていますが、
江戸時代以前には今よりもいろいろな種類の松がそこそこに生えており、
すっーと伸びた松もたくさん生えていました。
ちなみに棘とは、棘のある小木の総称です。
要は松は松らしく、棘は棘らしくということです。
それぞれの特徴は違っていても、そこに優劣など
つけられないし、つける必要も無いのです。
ただそのものらしく自然でいいということなのです。
どうぞ、あなた自身もあなたらしさを大切にしてください。
賞金pupmkinsを成長させる方法
■8月の禅語■
八風吹不動
(八風吹けども動ぜず)
(ハップウフケドモドウゼズ)
どうして人の心は揺らいでしまうのでしょうか?
それは八種類の風のしわざだと言われています。
八種類の風「八風」とは「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」
(り・すい・き・よ・しょう・き・く・らく)のことで、それぞれ、
人に利益を与える・損失させる・陰でそしる(文句をいう)・陰でほめる・
面前でほめる・面前でそしる・苦しめる・楽しませる・という意味です。
そんなさまざまな風が吹いても動じないでいなさいと、この語は言っているのです。
大地にしっかりと根を張っている木は、風に吹かれて多少揺れることはあっても、
吹き飛ばされることはありません。
私たちも自分の軸となる心をしっかり持って、八風にあおられても、自分を見失わない
ようにしなくてはいけません。
■9月の禅語■
真味只是淡
(真味は只是淡)
(シンミハコレタン)
「醸肥辛甘(じょうひしんかん)」は真味に非ず(あらず)。真味は只だ是淡なり」
(中国・明時代の洪自誠(こうじせい)著「菜根譚(さいこんたん)」の一節)
醸(濃厚な酒)、肥(こってりしたもの)、辛(辛いもの)、甘(甘いもの)などは真の
美味しさではなく、「淡い味の中にこそ、真の美味しさがある」ということです。
料理の話になるみたいですが、実はこの言葉は人間関係のことを言っている禅語
なのです。
味付けの濃いものは一口目は美味しいもの。しかし食べ進めているうちに飽きてしまうし、素材の善し悪しも分かりにくいのです。人間もこれと同じで、過度に着飾ったり、知識をひけらかす人は、一瞬は魅力的に見えますが、いつまで付き合ってもそこから先の魅力が見えなければ「なんだかつまらない人かな・・・」というふうに思えてきたりします。淡白な味というのは、素材のよさが命です。そして、毎日食べても飽きがこなくて体にも優しい。そんな人、そんな人間関係が素敵ではないでしょうか?
■10月の禅語■
月白風清
(月白く風清し)
(ツキシロクカゼキヨシ)
澄み切った夜空にぽっかりと白い月が浮かんでいて、そこに爽やかな風が吹いている。
一日何か嫌なことがあっても、帰り道でこんな風景に出会えたら嫌なことも忘れて
リフレッシュできそうです。
しかし、残念ながら、なかなかこんな美しい光景にはお目にかかれません。
そんなときはそっと目を閉じて、ススキ野に一人ゆったりとたたずみ、秋風に吹かれながら
月を眺めている自分の姿を想像してみてください。
心が穏やかに清められていくような気になることでしょう。
私たちは何かというと、金にとらわれ、地位にとらわれ、名誉にとらわれ、主義にとらわれ、自分にもとらわれて、二進(にっち) も三進(さっち)もいきません。これらの執着物(とらわれもの)を一切断ち切って、洒々落々(しゃしゃらくらく)、自由自在のサバサバ(・・・・)した境界(きょうがい)になりたいものです。その清々しさを、「月白く風清し」と頌したのです。(臨黄ネット参照)
■11月の禅語■
明珠在掌
(明珠掌に在り)
(ミョウジュタナゴゴロニアリ)
「明珠」とは特別な石のことで、転じて「幸せ」でしょうか。
あなたの手のひらに「幸せ」はもうあるということです。
私達人間は、「幸せ」には決まった形があるように思い込んでいます。
大きな家に住むとか、お金がたくさんあるとかなどなど・・・
でも「幸せ」は形ではなくて自分で感じるものなのです。
大変な仕事をやっと終えてビールを飲む瞬間、「幸せ」だと感じたことはないですか?
あなたの大好物を食べているとき「幸せ」だと思ったことはないですか?
大好きな人と過ごせて「幸せだなあ」と思えたら、それがあなたの「幸せ」なのです。
「幸せ」だと思えることがあれば、「幸せ」、ということなのかもしれません。
つまり、幸せというのは降ってくるものではなく、常に、自分自身の中にあり、
それを気づいて感じ取るもの。自分のチャンスや才能、生き方の答えも、
すべて自分のなかにあるものなのです。
明珠は自分なりの幸せ、であり、自分なりの哲学であり、
自分なりの生き方、良さ、悪さ、自分が尊いと思うことすべてです。
自分はついてないとか、あの人は「いいなあ」とか、考えるより前に、
手のひらに在る、明珠を見つめることからはじめてみてはどうでしょうか?
■12月の禅語■
行雲流水
(こううんりゅうすい)
心に引っかかり無し。一所不住である行く雲と流れる水を、無住心に喩えた語。
無常の流れに無住を認め得れば、喜びにとらわれることも無く、憂いに住することも無い。
大空に浮かぶ雲や流れる水のように、どこまでも自由で、いっさいのものに執着することがない
様子のこと。このような悟りの境地のことをいう。空に浮かぶ雲を眺めてみる。
流れる雲は、何のこだわりもなくあるがまま空を漂っている。風により形を変え、
変幻自在で自由である。
流れる水は、一ヶ所にとどまることがない。周りに何が起こっても流れ続けるだけである。
目の前の尺度や世の中の概念にとらわれて、一歩も踏み出せずにいるのではなく、
無住心で自由になって、いたるところに心を� ��どめていくことが大切である。
平成21年度
■1月の禅語■
一
(イチ)
「一」を辞書で引いてみると、たくさんの意味があります。
自然数の最初の数、いくつかのうちのひとつ、最も優れたこと、物事の最初、ただ一つ・・・・などなど
このシンプルな一文字に私達人間、そして宇宙の万物すべてが当てはまるというのが禅の考え方です。
宇宙に数えきれないくらい、たくさんの命があって、自分という人間はその中の小さな小さなひとつでしかない。
けれど、同じものはひとつとしてない唯一のもの。ちっぽけだけどその命は、二度とつくることはできないのです。
そう考えると、命の尊さを感じずにはいられません。
さらに、「一」はすべてのものがそこから生まれ、そして帰るところであるただひとつのものと考えられています。学校の円形トラックのスタートとゴールが同じなのに似ているかもしれません。しかも、そのラインが「一」と
いう文字に見えるというのは少しできすぎかもしれませんね。
「きょうの禅語〜心が元気になる30のメッセージ〜」より
■2月の禅語■
天私無
(テンワタクシナシ)
この言葉の「天」とは大自然のことです。「無私」は私が無いということ。
大自然には「私」つまり、我や欲がないということです。
太陽は平等に光を放ち、地球は休むことなくその太陽の周りを回り、そして
他の惑星の配置は変わることがありません。
お気に入りの星だけに光を当ててみたり、面倒になって回るのをやめてしまったり、
あちらの場所のほうがのちに高値がつきそうだからと他の星を押しのけたりはしないのです。
一方、人間もこの大自然の中の一員なのにどうでしょうか?
人間の社会は「私」「俺」「自分」「私」「俺」自分」・・・であふれているようです。
幼い子供が数人で遊んでいるのを見ても「私のおもちゃよ!」と取り合ったり、やみくもに「私を見て!」
と自己主張をしてみたり・・・。
私たちには本来、そういう本質が備わっているのかもしれません。
だからこそ、無心で無欲な大自然に憧れ、そうなりたいと願うのかもしれません。
人を思いやる心を持ちましょう。
■3月の禅語■
忘筌
(ぼうせん)
「目的のためには手段を選ばない」という言葉をよく耳にします。
健康食品オタクの人が「健康のためなら死んでもいい」とよく冗談で言っていますが、
こういう矛盾は案外多いものです。
家族が楽しく暮らすために手に入れた家なのに、
いつのまにかそのローンでがんじがらめになってしまったり、
平和のための科学の研究が、いつのまにか戦争に使われてしまったり、
仕事の完成度を高めることに力を注ぐべきなのに、どうすれば評価を高められるかに
すり替わっていたり・・・
例をあげればたくさんありますね。
「忘筌」という禅語の由来は、中国・戦国時代の思想書「荘子」の
「魚を得て筌(せん)を忘る」からきています。
「筌」とは魚を捕るための細長い籠のことで、
「魚を手に入れたら、道具はもう必要ない」、つまり、道具を大切にするあまり、
その道具を使って行う本来の目的をおろそかにしては駄目ですよ、
という教えです。その 時代の漁師たちは「筌」も自ら作っていたそうですから、
過剰に大切にしていた人も多かったのかもしれませんね。
■4月の禅語■
碎啄同時
(そったくどうじ)
「碎啄」の「碎(そつ)」とは雛が卵からかえろうとする時、殻の内側からつついて知らせること。
「啄(たく)」は親鳥が外から卵の殻をつつくこと。二羽のくちばしが殻をはさんでちょうどあった時、
そこではじめて殻が割れて、雛が外へ出ることができるという意味です。
どちらかが早すぎても遅すぎても、 強すぎても弱すぎてもいけない.阿吽の呼吸が大事です。
この俗諺を禅の修行の上で、師と弟子の関係に あてはめて、
師の僧は弟子の修行の習熟してくる状態や心境の充実度をみまもり、
機縁の熟する時を見て、 啄す師の眼力、力量が問われます。
師がいくら機縁を与えようとしても、弟子のほうが未熟あれば、悟りの機縁は出来ません。
この碎啄の機は日常の親子の関係、夫婦、恋人同士、商売上の売り手と買い手など
さまざまな関係にも及びます。また茶席の主と客の意気投合、呼吸の合ったこころの通いあいにも及びます。
何かを実現させたい時、自分の準備は万全なのになかなか事がうまく進まない場合があります。
そういう時は焦ってしまいますが、もしかしたら周囲の準備ができていないのかもしれません。
また、あなたのつつく場所が、ちょっとずれているのかもしれません。
いつかあなたの卵がかえるといいですね。
「きょうの禅語〜心が元気になる30のメッセージ〜」より
■5月の禅語■
風来疎竹 風過而竹不留声
(風疎竹に来る 風過ぎて竹に声を留めず)
(かぜそちくにきたる かぜすぎてたけにこえをとどめず)
「風が疎らな竹林にあたると、竹の葉がさやさやと鳴る。しかし、風が過ぎ去ると、もう竹には音が残っていない。」
つまり、徳の高い人は、何か事が起きた時には心が動くが、その事が終われば心もまたもとの空虚に
もどって、いつまでも、執着していないということを表しています。善かれ、悪かれ、その事に執着して、
いつまでも精神を浪費するような愚かなことをせずに、心の空であることを学べということです。
■6月の禅語■
遍界不曾蔵
(へんかいかってかくさず)
マサチューセッツ州にクリスマスの木を切り倒すためにどこに
世の中は何かを隠したりしてはいません。真実は隠されているのではなくて、すべてあなたのまわりに
現れている、という意味です。だから、真実が知りたいのであれば、よく見る、よく感じることです。
それにはよく見える目を養うことです。よく感じる心を養うことです。
目が曇っていたり、心が閉ざされていたりするから、真実が見えないだけなのです。真実は何も
隠すことなくあけっぴろにそこにあるのです。
「顔に書いてある」、「おどおどしている」、「目の奥が笑っている」など、あまり科学的でない表現も、
実は隠すことのできない真実を表しているのかもしれません。
「地球が悲鳴をあげている」、「海が泣いている」。自然こそ何も隠さず全てを見せているの� �もしれ
ません。見える、見えないかは人間次第なのです。
〜ほっとする禅語70より〜
■7月の禅語■
一雨潤千山
(一雨千山を潤す)
(いちうせんざんをうるおす)
たったひと雨があらゆるものを平等に潤すという禅語です。
すぐれた仏法が全ての人に恩恵を与えるという意味です。
一部の人だけに役に立つ仏法というのはありません。誰にでも平等に人生や世界を教えてくれます。
経営者には役には立つが、主婦には関係ないという仏法はありませんし、子供の教育には使えるが、親となったらもう卒業、なんてこともありません。僧侶にだけにわかるものでもなく、外国人にも他の宗教の人々にも恩恵をもたらすものなのです。
この禅語は、ある人には「誰かにだけひいきするのはなく、みんなに平等に接する」と思わせる、またある人には、「全員に配分したならば、取り分が少なくてもやむなし」とあきらめさせる言葉なのかもしれません 。誰にでも同じように接するように心がけてみましょう。
■8月の禅語■
話尽山雲海月情
(話尽くす山雲海月の情)
(かたりつくすさんうんかいげつのじょう)
山の心情、雲の心情、海の心情、月の心情、即ち一切の心と言うのが山雲海月の情で、この場合、親しきもの同士が胸中の心情、境地、心境のありったけを語りつくすさまを表す言葉です。お互いの腹の底まで包み隠すことなく、あらいざらいに打ち解けあい語り合う意味であります。
ここでは心境を開き、大悟徹底したるもの同士が自らの悟りの境地、体得した仏法の何たるかを腹蔵なく語り合う情景を表す言葉ですが、私たちは、悟りの境地、仏法の第一義などと高尚な話の語らいという次元ではありませんが、家族、学校の同窓会の集いのときなど、それこそ雲の沸き出るように、祖父、祖母、父、母、兄弟、姉妹、親戚、旧友、学長恩師、隔てもなく取引、飾りもなくお互いが懐かしみ、まさに山雲海月の情さ� ��がらの場面がうれしいということなのです。
お盆のこの時期、こういう機会が多いと思います。ぜひ大切にしていただきたいです。
■9月の禅語■
一行三昧
(いちぎょうざんまい)
禅の修業といえば『坐禅』であります。自分と向き合い、心の安定を得られる坐禅に集中することはもちろん、一つのことに精神を統一して邁進する。それを「一行三昧」といいます。
しかし、坐禅だけが「一行三昧」ではなくて、日常生活の全てに際して心が素直で純真でいられたら、それもまた「一行三昧」なのです。寝たり起きたり、どこにいても、どんなときでも、「一行三昧」することでそこが極楽浄土になります。
あなたにとって、どこにいる時が「一行三昧」しやすいですか?あなたにとって何をしているときが「一行三昧」に近づけますか?
茶の湯の手前に無心になっている時。掃除をしている時。食事をしている時。畑仕事をしている時。
スポーツの秋、芸術の秋、食欲の� �などなど・・・・。この時期「一行三昧」になれる機会が多いと思います。あなただけの「一行三昧」への入口を探しておくこと、ぜひおすすめいたします。
■10月の禅語■
達磨安心
(だるまあんじん)
安心しきった幸せそうな赤ちゃんの寝顔。そんな心境でいつも過ごしたいものです。
それに比べて、あなたのその顔、なんですか?いくつもの不安を抱えて、口はへの字、眉間には縦じわ。なにがそんなに不安なんでしょうか?
不安をなくす方法を、禅宗の初祖、達磨大師におたずねしたら、「不安の種を持って来い」と言われました。探してみたけども無かった。不安がないのならそれこそ安心じゃないか、という話がこの言葉の由来です。
今でも同じです。不安を消す方法は、不安のモトを探すことから始まります。騙されたと思ってやってみてください。あなたの不安探しを・・・。コツは不安の本当のモトのモトまで突き進んでいくこと。不安の種の一歩手前で止まってしまうと、不安が不安を呼んでし まうことになります。
十月五日は達磨大師の命日です。本山の國泰寺では達磨忌の法要が行われます。
御参りをして、不安をなくし安心を得ましょう。
■11月の禅語■
歩々是道場
(ほほこれどうじょう)
この「歩々是道場」(趙州録)の語は、もとは維摩経の中の維摩居士の言葉からきています。
あるとき、一人の修行者(光厳童子)が、喧騒の城下の街中を出て、閑静な修行に適した場所を求めようとしていた時、向こうから城下に入ろうとする維摩居士に出会ったのです。
そこで光厳童子は「どちらから来られましたか?」と訊ねたところ「私は今、道場から来たんだよ」
と言う維摩の答えです。
「えっ、道場ですって?それは何処にあるんですか?」と光厳が問いかけた時、維摩が答えた言葉が
「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」でした。「直心」とは素直なと言うように、真っ直ぐで正しく、我見、我執のない無雑な心のことです。便ち、直心であれば、何処にいても、そこがそのまま道� �なんだよと言う言葉です。
アトリエがないから絵が描けない。茶室がないからお稽古ができない。ピアノがないから歌えない。机がないから勉強ができない。どこへ行けばいいのか分からないから坐禅ができない。そんな言い訳をする人を許さない禅語です。いつどこでも一歩一歩移動していくごとに、その場所こそが修行の場。いつでも道場にいると思えということです。 絵は野に出て描くもの。歌は自分の耳が育てるもの。勉強はみかんの箱でもできる。茶の湯の心は茶室だけではぐくまれるものではない。坐禅(坐る事)は畳半畳あればどこでもできる。生きているすべての瞬間が修行の場なのです。呼吸も姿勢も、歩く姿も、言葉ひとつも。だから今、生� ��ている一瞬一瞬気が抜けないのです。 目の前に出された食事がどこから来て、誰が運んだできたのか。自然の恵みの収穫と人の手を思えば台所も立派な道場なのです。
無常迅速
(むじょうじんそく)
人生はあっという間という意味の禅語です。時間を無駄に過ごしたくない。一瞬一瞬を無意識にやり過ごさない。時は待ってくれません。今年も後一ヶ月で終わってしまいますが、無駄な時間を過ごしたと思った時が何度かあったでしょう?それはどんな時でしたか?気持ちが散漫で、あれよあれよと時間がたってしまった時。何をすべきか考えあぐねて思いが定まらぬ間に時間がたってしまった時。たいていのことは何かの役に立つか、教訓にはなっているはずですが、向かう方向の決まっていない時間はとかく無駄な時間と感じてしまいます。さらに自由を奪われた時間も無駄になって、自分らしくなく過ごした時間は空っぽです。いつも心の中の「正直な自分」に問いかけながら進むのが時間を無駄にしないコツです 。今年も残り少ないですが、時間を無駄にしないよう過ごしたいものです。
平成22年度
■1月の禅語■
千里同風
(せんりどうふう)
「遠く離れた所でも同じ風が吹いているということ。転じて天下泰平であること。あるいはその逆で世が乱れていること」という意味です。遠く離れていても、そこには同じ風が吹いている。今、この場所で見渡す空はどこまでも続き、遥か遠くのその空の下に同じ心を持った人がいる。同じように笑い、同じように悲しみ、同じように感じている人がいる。毎日見ている顔だけがあなたに共感しているのではなく、むしろまだ会った事の無い人々の頭上にもこの同じ空が広がり、同じ星を見ていることに思いを馳せましょう。「言葉は通じなくとも心は通ず」「仏法はただ一つであり、たとえ両者は離れていてもつながっている」であります。今年の國泰寺の管長様の短冊の文字がこの「千里同風」であります。< /p>
■2月の禅語■
春来草自生
(はるきたらばくさおのずからしょうず)
その年齢にならなければわからない心境。その時が来なければわからない心境があります。春が来れば、草は自然と生えてくる。草が自分の意志で生えてくるには、その時を待つ以外にない、という言葉です。親がどうの、上司がどうの、先生がどうのと言ったって、言われたから仕方なくやっているうちは芽は出ません。本人ひとつも気が入っていない。にこにこしながらやっているのは顔色を窺う(うかがう)からで、嫌なら嫌と言う方がましかもしれません。自分からやる気にさせるには、その「時」を待つことです。今からやっておけば将来有利だとか、コツを教えてくれれば若くても修得できるはず、と思うのは拙速(せっそく)(出来は良くないが仕事が早いこと。 得られる結果が不充分(拙)でも、短く終わらせる(速)ことを言う。)。無理矢理、秋に芽を出してみたら、幼いうちに冬がきて、いっぺんに凍えてしまうのが関の山。自然の流れには逆らえません。
「続・ほっとする禅語70」より
■3月の禅語■
放下着
(ほうげじゃく)
捨ててしまいなさい。という意味です。禅の言葉は徹底的に言い切ります。「捨てるものがない」なんて言うと、捨てるものがないというそのことさえすててしまえ!と。名刺の肩書きが捨てられますか?妻という立場が捨てられますか?学歴を捨てられますか?貯金が捨てられますか?20種類もの薬を毎日服用していた人が、すべてやめてしまったら健康になったという話には驚かされましたが、納得もしました。捨ててこそ、本来の立場がくっきりと浮かび上がってきます。荷物もおしゃれも保険も持たずに旅に出るということは、旅の目的をはっきりとさせています。その身軽さ、爽快さを味わってみてください。捨てても生きられる人こそ本物。すっぴんのあなたが素敵だと信じて欲しい。
■4月の禅語■
桃花笑春風
(とうかしゅんぷうにえむ)
また今年も桜の花を見ることができた。生きていることを感謝しながらのお花見の季節です。人の姿は変わっても、花の姿は変わらず。桜の花も桃の花も、春風が吹くたびに同じ姿で同じ香りで咲きほころびます。禅語でこのことを言うのは、世の中が変わっても仏様の教えもまた、桃の花が咲くのと同じように変わらないものだ、という意味です。桃の花も仏法も、繰り返し繰り返し、私たちに同じことを説いてくれます。禅語を聞くたびに、違う意味や違う強さ、違う深さ、そしてありがたさの度合いまで違って感じるのは、私たち自身が聞くたびに心が変化しているからなのでしょう。自分が少しでも成長したかな、と思えたら、昨年読んだ禅語をもう一度取り出してみてはいかがでしょう。わからなかったあの言葉 が魔法が解けたように分かるかもしれません。
「続・ほっとする禅語70」より
■5月の禅語■
他不是吾
(たはこれわれにあらず)
ツチハンミョウ科は、馬に何か
人は親切でおせっかい。いろんなことを言ってくれます。「あなたがそんなことをすることないよ。誰かもっと若い人にやってもらいなさいよ。」「炎天下で庭掃除なんかして、もっと涼しくなってからにすればいいのに。」などなど。あなたは「自分がやろう」と決心して始めたはずです。そして、今やらなきゃだめなんだと思った瞬間があったはずです。だから、そんな周囲の甘いささやきや助言にいちいち耳を貸さなくてもいいのです。あなたがやろうとしたそれこそがあなたの仕事なのです。あなたの決心が、あなたを活かす仕事を決める。他の人ではないのです。あなたが行うべき仕事。そして、あなたがとりかかった時がその仕事の旬なのです。あなたが今やるべきことは、あなた自身が知っている。さあ、は じめてください。自分が思った通りに。
「ほっとする禅語70」より
■6月の禅語■
且緩々
(しゃかんかん)
あわてるな。あせるな。肩に力が入りすぎ。落ち着きなさい。呼吸を整えて。急ぐ人は、はたから見ると滑稽です。その道は袋小路なのに見る間もなく走っていく。その道は渋滞だとラジオで言っているのに聞く間もなく走っていく。どの道も、急いで極めることはできません。急がば回れ。師匠に対し、矢継ぎ早に質問攻めにして疑問をすべて解消し、早く悟ろうと思ったお坊さん。お師匠さんに「且緩々」と言われてしまいました。おいおい、落ち着きなさいよ。まずはお茶でも召し上がれ。緊張したお客様を迎えたら、この一言をかけてあげたい。人生だって、時にはふと立ち止まり、これでいいのかとゆっくりと考える時間が必要。
「ほっとする禅語70」より
■7月の禅語■
曹源一滴水
(そうげんのいってきすい)
一滴の水が山から流れると、そこに小川を作り大河となってやがて天下を潤す。日本にあるたくさんの禅の宗派をたどると、中国・曹渓の上流に住んだ慧能禅師(638〜713。唐の人)にたどりつきます。この川の源流を曹源ということから、今日ここまで広く繁栄した慧能の仏法を「曹源の一滴水」といいます。たった一滴の水が大河になっていく様は、たった一人の説法が弟子から弟子へと伝承され、やがて世界に伝わり人々を救済する様と重なります。一滴の水を大切に。一滴だからと粗末にせず、一滴だからといじけることなく、その一滴水は大海の源泉になるかもしれないのです。森の樹木を救うかもしれないのです。一滴水には、とてつもない可能性がある。人間1人には、とてつもない可能性がある 。繁栄の言葉としてよく使われます。自分の可能性を信じて。
「ほっとする禅語70」より
■8月の禅語■
海神知貴不知価
(かいじんたっときことをしってあたいをしらず)
海の神は、海に存在するものをすべて知識として知っているだろうけれど、その価値を知らないのではないか、という言葉です。海の神があわびや真珠を売り出すわけではありませんから、価値を生かしていないなんて決めつけるわけにはいきませんが、知識をふりかざす人を見て、本当に価値がわかってしゃべっているのかしら、と思うことはしばしばあります。いただいたデパートの商品券は、大切なものだからタンスにしまってあるけれど、使わなければただの紙切れです。活用しなければその価値は生まれない。その商品券で母を喜ばせることが出来るかもしれないのに・・・。これも価値が分かっていないことになります。あなたは自分が持っている力を知っていますね。思いやりの心や雲行きを変える力や 勇気を持っている。その力はしまったままですか?
「続・ほっとする禅語70」より
■9月の禅語■
香厳上樹
(きょうげんじょうじゅ)
香厳という和尚さんが出した難問です。樹に上って口で枝をくわえている手も足も出ない状態で、急に樹の下から人生一大事という質問をされたらどうするか?、というのです。さあ大変です。この禅語は、絶体絶命のピンチの時こそ頭で考えるなと教えてくれています。その時こそ、自分のやりたいことをやり抜け、というのです。樹に上っている事を忘れて突然立ち上がって答えてもよし、枝をくわえたまま心で答えてもよし。答えることに集中して樹から落ちても本望。人がどう見るだろう、怪我をしないで答える方法は何だろう、よくやったと褒められるのはどんな方法だろうと考えているようではピンチは切り抜けられません。自分が今やっていることに自信を持って、ピンチに立ち向かえと言っています。
「続・ほっとする禅語70」より
■10月の禅語■
誰家無明月清風
(たがいえにかめいげつせいふうなからん)
誰の家にも月の光が射し、清らかな風が吹く。どんな人にも、仏の心が宿っていることを言っています。禅の修業をしたお坊さんでなくても、毎日お経を唱える敬虔な人でなくても、誰でも仏の心を持っています。悲しいですが、私たちは外見や表面的な態度で人を判断しがちです。自分が真面目にやっていると自負している人は、不良を見れば自分とは心のあり方が違うと判断していませんか?心のあり方が違ったとしても、仏の心を持っていることに違いはないのです。ずいぶんな悪さをした犯罪者でさえ仏の心を持っている。あなたが自分に自信がなくなっていたとしても安心してください。あなたも仏の心をもちろん持っている。だから目の前のいる人にも仏の心が宿っていることを必ず思い出して接してくだ さい。どんな姿、どんな表情であなたを見ていようとも・・・。
「ほっとする禅語70」より
■11月の禅語■
人人悉道器
(にんにんことごとくどうきなり)
「この世に生まれた人は誰でも道を極める可能性を兼ね備えている」という意味です。道を極める「努力」をすることによって、もともと備わっている可能性が開くというのです。曹洞宗の開祖、道元禅師は、人が皆仏の子なら、最初から何も修行することなんてないじゃないか、という問いかけに「精進」という答えを見つけました。仏の子であっても無心で「努力」をしなければ、道を進み完成させることはできないというものです。「努力」すれば豊かに開ける道。そんな道が見つかったら、どんなに爽快に生きられるでしょう。その「道」と、完成される「器」は、もともと生まれた時からあなたの中に備わっているのです。あなたの「努力」は素晴らしい「道器」となる。あなたは、あなたの「精進」によっ て輝かすことが出来る神秘を持っているのです。大いに「精進」されますように。合掌
「ほっとする禅語70」より
■12月の禅語■
行亦禅坐亦禅
語黙動靜体安然
(ゆくもまたぜんすわるもまたぜん、
ごもくどうじょうにたいはあんねんたり)
坐禅をしたり、写経をしている特別な時だけが禅ではありません。仕事をしていたって、遊んでいたって日常の全てが禅の実践なんだということです。禅を実践するということは、モノに心を奪われないから贅沢をしないし、いただいた身体だから大切にして、暴飲暴食もしない。自分の中にある純粋で素直な本来の自分といつも言葉をやりとりしているから現象に騙されずに生きていける。無理をせず背伸びしないで、あなたはありのままのあなたでいられる。これが全部、一瞬も忘れずに実践できたならば、ダイエットに悩むこともなかっただろうし、人間関係にも悩まなかっただろうし、カードローンにも追われなかったろうし、相続問題のいがみあいもなかったはずです。普段の暮らしの中にいつも禅の心を・・・ 。合掌
「ほっとする禅語70」より
平成二十三年
■1月の禅語■
光陰如矢
(こういんやのごとし)
光と陰とは、太陽と月のこと。プラネタリウムで一昼夜をぐるぐると早回しにしたようなダイナミックな表現です。矢を放ったごとく、めくるめく過ぎていく毎日。何万年たっても一日も後戻りすることはありません。ただ、太陽は急ぐ様子もなく、なにくわぬ顔で輝いています。同じように月は音もたてずあわてず、美しいみちかけを見せてくれています。こんな天体のリズムに波乗りのように乗ってしまいましょう。自分の小さな考えの中で自転して、からまわりした時間を過ごしてしまわないように。一日一度は空を見上げて、天体のリズムを感じてみてください。決して「急げ、急げ」とは言っていないはずです。
「ほっとする禅語70」より
■2月の禅語■
花謝樹無影
(はなしゃして きにかげなし)
「謝」は感謝の謝ではなく、ここでは花がしぼむという意味です。花がすっかりしぼんで「樹に影なし」ですから、樹にはもう一枚の葉っぱすらないという状態です。美しく咲き誇っていた花が落ち尽くして、いまやまるで真冬のような寂しい姿をさらしている。しかしその裸の樹はそのまま枯れてしまうかといえばそうではありません。次の春のために着々と力を蓄えているのです。花を落とし、葉を落としたのも、実は来年、再び花を咲かせるためなのです。そういう内に秘めた力を、この裸の樹に見てとらねばなりません。今はまったく見る影もない樹木ですが、春になれば蓄積されたエネルギーが一気に爆発して再び「百花繚乱(ひゃかりょうらん)」となってよみがえる。その来るべき力は、すでに花を落とした ときから準備されているのです。役者は「待つ」のが商売だといいます。自分を生かすいい役が来るのを、じっと待つ。ライバルがどんどん主役をとって人気が出てもあせらず、今は自分の季節ではないとこらえて、中途半端な役に飛びつかない。出かけるのはダンスの稽古だけ。行けば次から次へと新人がデビューする話。自分のデビュー当時を思い出す。才能があると書いてくれたマスコミ。褒めてくれた監督。貯金が底をつく。友人が心配して、就職の世話をしてくれるという。でも、禅語に「花しぼんで木に影なし」とある。冬のあいだ花をつけない裸の木は死んでしまったのではなく、次の春に向けて花を咲かせるエネルギーをたくわえているのだと。連日120%の力を出し切って演技していた役者が、限界を感じたからニュ� ��ヨークに勉強に行きたいと降板した。今は自分にとって蓄積の季節なのだと、鏡の前で覚悟した。
「やさしくわかる茶席の禅語」・「続ほっとする禅語70」より
■3月の禅語■
遠観山里色
(とおくさんりのしきをみる)
遠く山の上から人の住む山あいの里を眺める。いつもはあの里の中でくるくると働き、そこが世界のすべてと思っていた。遠くには山が空に向かってそびえているのだと思っていたら、こんな風に私たちのいる里をやさしく包んでくれているんだ。知らなかった、はじめて見る幸せそうな里の風景。「ふるさとは遠きにありて思うもの」自分の家、自分の村、自分の国、自分の仕事、自分の家族、自分の人生。この「遠観山里色(とおくさんりのしきをみる)」の言葉のような高い山の上に身を置かないと、分からないことがあります。自分の周辺を客観視してみると、あらためて気づくことが出てきます。海外に行くと、日本のことがよく見えてくるというのも同じ。日本にしかないもの、日本人が亡くしたもの、世界の 中の日本の立場。たまには遠くから見てみませんか。
「続ほっとする禅語70」より
■4月の禅語■
一心
(いっしん)
すべてのことは「心」が原動力。心を一つにしてものごとに向かえば、必ず相手を動かすことが出来る。筋肉隆々の格闘家が、試合に勝つために一番必要なことは「心の力」だと言っています。「心技体」。身体を作り、技を修得したら、最後に「心」で戦うのだそうです。心が「やるぞ!」と思わなければ、鍛えた筋力も半分しか力を発揮しなくなるそうです。山のように大きな身体を支配する「心」。そう、筋肉でさえ動かすのは「心」なのです。あなたの笑顔は「心」の現われ。「心」が沈んだら声の張りも変わります。あなたは自分の「心」をどう使っていますか?今、日本は東北地方太平洋沖地震で大きな被害を受けました。今こそ日本国民が心を一つにしなくてはいけません。
「続ほっとする禅語70」より
■5月の禅語■
人身得ること難し
(にんしんうることかたし)
人間のカラダを授かったことは、得がたいことであると言っています。この句の次に「仏法値うこと希なり(ぶっぽうあうことまれなり)」とあり、これは仏法に巡り合う事だって滅多にないことだというのです。私達は今、人間の身を授かって生かされています。そんな風に考えたことはありますか?この身体は、いただいたもの。「貰ったものではなく借りものなんだから乱暴に使わず、大切に使わなくてはなりません」。こうして、このホームページをみて、禅語と出会ったあなた。仏の教えに巡り合っているのです。仏の教えに少し踏み込むことになったこの機会も、滅多にないことと言えるのです。なんとなく生きて、なんとなく食べたり、読んだり、感じたり。それが得がたいことだとか、稀なことだとか・・ ・・忘れがちです。
「ほっとする禅語70」より
■6月の禅語■
雨中看杲日
(うちゅうにこうじつをみる)
「雨中看杲日、火裏に清泉を酌む」(うちゅうにこうじつをみ、かりにせいせんをくむ)という対句になっています。文字通りに解釈すれば、雨の中に燦々(さんさん)と輝く太陽を看、火の中から清らかな泉をくみ上げる、ということになります。これは常識的にはありえない話です。しかし、「禅」ではその「常識」を捨ててしまえというのです。問題は、常識や分別を超えて、雨の中に太陽を看ることができるかどうか、火の中から清泉を酌む事が出来るかどうかなのです。つまり、雨と太陽、火と清泉という二元対立を克服できるかどうかということです。梅雨に入り、雨の多い日、あなたはどれだけの太陽を看る事ができるでしょうか?
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■7月の禅語■
仁者寿
(にんじゃのじゅ)
「仁者」は完全に道徳の備わった人のこと。「寿」は命が長いという意味ですが、これは別に長生きをするという時間的なことではなく、自分の命をまっとうするということです。50歳で死んでも人生をまっとうする人もいるでしょうし、逆に90,100歳まで生きても、まったく何も出来ないまま人生を終える人もいます。ですから時間の長い短いということではなく、1つのことを一生懸命、全力でやることによって、全てのことが整う。いわゆる人道的な徳が備わる。そういう人のことを「仁者」というのです。そういう人は、時間、空間を超えて、実にさわやかな生涯を送ることが出来ます。ただ長生きをすればいいというものではありません。いつまで生きられるか分からない自分の生涯を悔いのないように 生きていこうじゃないか、ということです。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■8月の禅語■
百花為誰開
(ひゃっか たがためにひらく)
花はある特定の誰かのため、あるいは何か目的があって咲くわけではありません。しかし、決して無意味に咲いているわけではないのです。毎年、その時期が来れば、ちゃんと美しい花を咲かせます。それは誰のためということではなく、いわば咲くべくして咲くのです。これは何でもないことのようですが、しかしよく考えてみれば、何とありがたいことでしょうか。花は咲くべくして咲く。人も生きるべくして生きる。お釈迦様は、人も鳥も花も、この世に存在する生きとし生けるものすべては、ことごとくみな仏だと言われています。(「草木国土悉皆成仏」(そうもくこくどしつかいじょうぶつ))これは非常にありがたいお言葉です。ただ、私たちは、なかなかそのありがたさに気づかないでいます。常に感謝の 気持ちでいたいものです。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■9月の禅語■
日々新又日新
(にちにちあらたに またひにあらたなり)
釈尊に「一夜賢者(いちやけんじゃ)の教え」という有名な教えがあります。 「過ぎ去ったことを追うなまだ来てもいないものを追うな 過去、それはすでに捨て去られたもの 未来、それは到っていないもの そうであればただ現在のことを ありのままに観察し動揺することなく、 それをしっかりと見極め、実践せよ ただ今日なすべきことを熱心に行え 誰が明日死のあることを知ろう 誰も死神の大軍と遭わずにいることはできない よくよくこれらのことを見極めた者は 心をこめて、昼夜怠ることなく実践するだろう このような人を「一夜賢者」といい また、心静まれる者という」 過ぎ去ってしまったことをあれこれ後悔したり、まだ来ていない未来のことをあれこれ心配しているうちに、私たちの限られた人生の時間はどんどんなくなってしまうので� ��。私たちに出来ることは、「いま」なすべきことをしっかりとなすこと、「いま」を充実して生きること、それしかありません。そのためには、あたりまえのことですが、一日一日を大切に、常に新鮮な気持ちで過ごしていくことです。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■10月の禅語■
大機大用
(だいきだいゆう)
「機」というのは機会の機、チャンスとういうことです。1つの「機」をとらえて、次へと飛躍する。そういう大きな働きを「大機」と言います。しかし、「機」だけでは不十分です。今度はそのチャンスをいかに用いるか。1つのチャンスを生かすために、次にどういう行動をとったらいいか。それが「大用」です。大切なことは「大機」だけでも「大用」だけでも駄目だということです。この2つが同時に働かなければならないのです。「大機」なしで、ただやみくもに走り回っても意味がありません。行動の根底には、その行動を意義づける大きな「機」がなければならないのです。必然的な動機があり、そしてその動機に裏づけられた行動があってはじめて、人間は大きく飛躍することが出来るのです。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■11月の禅語■
徳不孤
(とくはこならず)
これは「論語」にある言葉で孔子は「徳は孤ならず、必ず鄰(となり)あり」と言っています。意味は、徳のある人間は決して孤立しない。必ず理解者があらわれるものだ、ということですが、しかしこの「徳」はこれ見よがしの徳であってはなりません。誰にも知られず、ひっそりと行う徳であってはじめて意味があるのです。さらに言えば、理解者があるかどうかは問題ではありません。理解者があろうがなかろうが、人が見ていようがいまいが、徳のある人は人に言われずとも徳を積み重ねていくでしょう。そのこと自体が尊いのであって、人の評価など、どうでもいいことなのです。自分のやるべきことをしっかりと。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■12月の禅語■
不期明日
(みょうにちをきせず)
千利休の孫で千宗旦(せんのそうたん)という方がおられます。宗旦は禅と茶は一つであるという、茶禅同一味を説き、大名に仕官せず、清貧の生活の中で、禅とひとつの茶道に徹しられました。その千宗旦は晩年、隠居をして、一畳台目の茶室を建てました。その席名を大徳寺の清巌和尚につけてもらおうと招待したところ、たまたま宗旦に急用ができて、わずかな時間留守にしてしまいました。急用を済ませて急いで家にもどると、もう清巌和尚は帰ったあとでした。見ると、茶室の腰張りに、清巌和尚の筆で、「懈怠比丘不期明日」(けたいびくみょうにちをきせず)と書かれていました。懈怠比丘、つまり、わしは怠け者だから明日もう一度来れるかどうかわからんよ、と。宗旦は深く反省をして、この茶室を「今 日庵」(こんにちあん)と名づけました。「不期明日」とは、明日を期待しないということです。私たちは、仕事が終わらないと、つい「残りは明日やればいい」となりがちです。しかしその明日が必ずあると誰が保障できるでしょう。仕事を残すのがいけないのではありません。大変な仕事なら、その日のうちに片付かない場合もあるでしょう。能力の限界もあるでしょう。問題は「やり残した」という思いと、明日をたのむ気持ちです。今日は今日の仕事、明日は明日の仕事、今年は今年の仕事。その日その日の仕事を精いっぱいやればそれでいいのです。今年もあと残りわずか。やり残しのないように。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
平成24年
■1月の禅語■
龍袖払開全体現
(りゅうしゅう、ふっかいして、ぜんたいげんす)
龍というのは架空の生き物ですが、非常に卓越した存在の象徴です。この龍が袖を払い開く。すなわち、堂々とその姿をさらけ出すわけです。「露堂々(ろどうどう)という言葉があります。この言葉は全てがはっきりとあらわれているということ。木は木、山は山、川は川、何一つ隠れているものなどありません。問題は、そのはっきりとあらわれているものを、まっすぐに純粋な眼で見ることができるかどうかなのです。そのためには、自分自身をもすべてさらけ出さなければなりません。 龍袖払開全体現は龍がその見事な姿を、身体全体をあらわして一点の隠すところもない。腹の中まで全部さらけ出して見せてしまうということ。私たち人間もまた、この龍のように、堂々と、そのありのままの姿をさらけ出して 生きていきたいものです。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■2月の禅語■
洞中春色人難見
(どうちゅうのしゅんしょく、ひとみがたし)
ひとは、草木が萌え花が咲くのを見て、「ああ、春が来たな。」と思います。ところが洞窟の中では、そういう目に見える変化というものがありません。春になっても、春らしい変化はどこにもない。しかし、春はそういう洞窟の中にもちゃんとくるのです。ただ、洞窟の外にいる者には、その春の気配が見てとれないだけです。いつのまにか春が来て、そして夏になり、気づかないうちに秋になって、そして冬になっていた。これでは寂しすぎます。きちっとそれぞれの変化を見てとれるだけの感性を研ぎ澄まさなければなりません。見難いところを見てとり、感じ難いところを感じ取る。そういう繊細な人間にならなければなりません。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
■今月の禅語■
桃花依旧笑春風
(とうか きゅうによって しゅんぷうにえむ)
これは「人面不知何処去、桃花依旧笑春風」(人面(にんめん)は知らず何れの処にか去る、桃花旧(とうかきゅう)に依って春風に笑む)と対句になっています。去年会った人はどこかへ行ってしまって、その行方は知らないけれども、そんなことには関係なく、桃の花は、春が来れば春風ににっこり笑うがごとくに咲くという意味です。そして、花が咲き、実がなり、やがて葉を散らしていく。それを私達人間が勝手に、ああでもない、こうでもないと言っている。しかし桃は、誰が教えるわけでもないのに、暖冬であれば早く咲くし、冬が長ければ花は遅い。誰が見ていようとみていまいと、桃は自然の摂理に従って咲く。私たち人間もまた、人がどう言おうが、自分自身の摂理にのみ従って生きていきたいものです 。
「やさしくわかる茶席の禅語」より
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